潮の満ち引き
2006年4月6日自分の中に潮が満ちてくるという感じは、なんとも幸せだ。けれど当然のごとくそれは一時のもので、満ちた後には引いていく。満ち潮は引き潮の前ぶれ、と考えなければならない。
しかし、引いていくと理不尽と思うのはなぜなのか。
自然の摂理でいうなら、引き潮は次に満ちるための準備でもあるのだから、そんなに悲観することもないではないか。
引いているということ、欠落しているということ、それは幸せではないけれども、景色がよく見えるし、人として幸いなことだと思う。
そんなふうに、一生激しく満ち引きを繰り返していくのかしらと思ったら、自分の性格とはいえ、笑ってしまう。なんて疲れるやつかねー。
今日はカゾクの誕生日だから、ケーキを買って、「先に帰ったほうがいいでしょう」と天気予報のようにつぶやき、8時前に帰宅する。ごちゃごちゃな空間の中で、自分がなんだか芝居を演じているような気がして、水槽の中の金魚になる。あぼあぼとして、
酸欠。
ひとりになりたい。家を出たい。
しかし、引いていくと理不尽と思うのはなぜなのか。
自然の摂理でいうなら、引き潮は次に満ちるための準備でもあるのだから、そんなに悲観することもないではないか。
引いているということ、欠落しているということ、それは幸せではないけれども、景色がよく見えるし、人として幸いなことだと思う。
そんなふうに、一生激しく満ち引きを繰り返していくのかしらと思ったら、自分の性格とはいえ、笑ってしまう。なんて疲れるやつかねー。
今日はカゾクの誕生日だから、ケーキを買って、「先に帰ったほうがいいでしょう」と天気予報のようにつぶやき、8時前に帰宅する。ごちゃごちゃな空間の中で、自分がなんだか芝居を演じているような気がして、水槽の中の金魚になる。あぼあぼとして、
酸欠。
ひとりになりたい。家を出たい。
コメント